ナポレオンとスミレ|皇帝の帰還を象徴した小さな花

春になると紫色の小さな花を咲かせるスミレは、ヨーロッパで古くから親しまれてきた植物です。
そんな小さなスミレが、19世紀初頭のフランスでは、一人の皇帝を象徴する花になりました。その人物が、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトです。
1814年に皇帝の座を追われたナポレオンは、地中海に浮かぶエルバ島へ渡りました。しかし、その翌年には島を脱出してフランスへ戻り、再び皇帝として政権を握ります。
この時期、ナポレオンを支持する人々の間で、スミレは彼を象徴する花として使われるようになりました。ナポレオンは「スミレ親父」という意味の Père la Violette という愛称でも呼ばれ、スミレはボナパルト派を象徴する存在になっていきます。
やがて、花束のなかにナポレオンの横顔を隠した版画まで作られるほど、スミレと皇帝のイメージは強く結びつきました。
この記事では、ナポレオンとスミレがどのように結びついたのか、エルバ島への追放から1815年の帰還までの出来事を中心に紹介します。
1. 皇帝となったナポレオン
ナポレオン・ボナパルトは、1769年に地中海に浮かぶコルシカ島で生まれました。
若くしてフランス軍に入り、1789年に始まったフランス革命後の混乱のなかで軍人として頭角を現します。特にイタリア遠征などで大きな軍事的成功を収めたことで、その名はフランス国内に広く知られるようになりました。
1799年には「ブリュメール18日のクーデター」と呼ばれる政変によって総裁政府を倒し、新たに成立した統領政府の第一統領となります。これによってナポレオンはフランス政治の実権を握りました。
その後、行政制度や法制度などの改革を進め、1804年には「フランス人の皇帝」としてナポレオン1世を名乗ります。同年12月にはパリのノートルダム大聖堂で戴冠式が行われ、フランス第一帝政が本格的に始まりました。
皇帝となったナポレオンは、ヨーロッパ各国との戦争を続けながら勢力を拡大していきます。アウステルリッツの戦いをはじめとする戦いで勝利を重ね、19世紀初頭にはフランス帝国とその同盟国・衛星国がヨーロッパの広い地域に影響を及ぼすようになりました。
ナポレオンを象徴するものとしては、鷲や蜂、皇帝を表す「N」の文字などが知られています。鷲は古代ローマ帝国を意識した象徴として採用され、蜂はフランス最古の王権と新しい帝室を結びつける意匠として用いられました。
一方、この時点でスミレがフランス帝国を代表する公式な象徴だったわけではありません。スミレとナポレオンの結びつきが特に強くなったのは、彼の権力が頂点を迎えた時期ではなく、むしろ皇帝の座を追われた1814年以降のことでした。
1812年のロシア遠征をきっかけにナポレオンの勢力は次第に弱まり、ヨーロッパ諸国による対仏同盟の攻勢を受けるようになります。そして1814年にはパリが連合軍の手に落ち、ナポレオンは退位を余儀なくされました。
こうしてヨーロッパの広い地域に影響力を及ぼした皇帝は、地中海に浮かぶ小さなエルバ島へ向かうことになります。ここから、ナポレオンとスミレを結びつける物語が本格的に始まります。
2. ナポレオンの退位とエルバ島への追放
1812年のロシア遠征に失敗した後、ナポレオンの支配は次第に揺らいでいきました。
ロシア、プロイセン、オーストリア、イギリスなどの国々はフランスに対する攻勢を強め、1814年には戦いの舞台がフランス国内へと移ります。
ナポレオンは各地で抵抗を続けましたが、連合軍の進撃を止めることはできず、1814年3月末にはパリが陥落しました。
ナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿にとどまり、当初は自らの息子を後継者とする形で皇帝の座を退くことを模索します。しかし、連合国側はこれを受け入れず、ナポレオンは最終的に自分とその後継者のフランスおよびイタリアの王位を放棄することになりました。
そして4月11日、連合国との間でフォンテーヌブロー条約が結ばれます。
この条約によって、ナポレオンは皇帝の称号を保持するとともに、エルバ島の主権を認められました。一方、フランスではブルボン朝が復活し、ルイ18世が国王として即位します。
4月20日、ナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で、長年にわたって自らに仕えてきた近衛兵たちに別れを告げました。その後、南フランスへ向かい、船でエルバ島へ渡ります。
こうして、ヨーロッパの広い地域に大きな影響力を及ぼしていたフランス皇帝は、小さな島の統治者として暮らすことになりました。
しかし、ナポレオンの退位によって、フランス国内から彼への支持が完全になくなったわけではありませんでした。旧帝国軍の兵士やボナパルト派の人々のなかには、エルバ島にいるナポレオンの帰還を期待する者もいました。
そして1815年になると、その支持を表す象徴として注目されるようになったのが、小さなスミレでした。
3. ナポレオンの象徴となったスミレ
1814年にナポレオンが退位してエルバ島へ送られると、フランスではブルボン朝が復活し、ルイ18世が国王として即位しました。
しかし、フランス国内には依然としてナポレオンを支持する人々がいました。そして1815年にナポレオンがフランスへ帰還した時期には、スミレが彼やボナパルト派を象徴する花として使われるようになります。
当時、復活したブルボン王家を象徴するものとして広く知られていたのが、フランス王家と古くから結びついてきたフルール・ド・リスでした。一方、ナポレオンを支持するボナパルト派の人々は、スミレを身につけることで、自分たちの政治的な立場を示すことがありました。
スミレは春になると小さな花を咲かせる植物です。ナポレオンがエルバ島へ渡ったのは1814年の春であり、その翌年の春には実際にフランスへ帰還しました。
こうした出来事とスミレの開花時期が重なったことで、スミレは「姿を消した皇帝が春に再び戻ってくる」というイメージと結びつけられるようになりました。
当時、ナポレオンは Père la Violette と呼ばれることもありました。Père は「父親」や親しみを込めた「親父」、Violette は「スミレ」を意味するフランス語です。
さらに、Caporal la Violette という呼び名も使われました。Caporal は「伍長」を意味します。ナポレオンは Le Petit Caporal(小伍長)という愛称でも知られていたため、スミレとこの愛称を組み合わせた呼び名です。
このように、1815年のナポレオンの帰還とともにスミレはボナパルト派を象徴する花となり、次第にナポレオンそのものを連想させる存在へと変わっていったのです。
4. スミレは支持者の印にもなった
スミレは、ボナパルト派の人々が自分たちの立場を示すための印としても使われました。
1815年3月21日付の『Gazette d’Anvers』には、ボナパルトの支持者たちが互いを見分けるためにスミレの小枝を身につけていたと記されています。
フランスでも同じ時期の出版物に、スミレがボナパルト派の合図として使われていたことを示す記述が現れます。
当時のフランスではブルボン朝が復活していたため、ナポレオンへの支持を公然と示すことには政治的な意味がありました。
そこで、小さなスミレが密かな意思表示として利用されたのです。
花であれば、一見しただけでは単なる装飾にも見えます。しかし、その意味を知っている人にとっては、ナポレオンへの支持を伝える合図になります。
こうしてスミレは、政治的な立場を密かに伝えることのできる花となりました。
5. ナポレオンの帰還
1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出しました。
そして3月1日、南フランスの海岸に上陸します。ここからナポレオンはパリを目指して北上しました。
政府はナポレオンを阻止しようと軍隊を派遣しましたが、彼のもとにはかつての兵士たちが次々と加わっていきます。
ナポレオンは大規模な戦闘を行うことなく進み、3月20日にパリへ到着しました。ルイ18世はすでにパリを離れており、ナポレオンは再び皇帝として政権を握ります。
ナポレオンが帰還したのは、スミレが花を咲かせる春でした。そのため、「春に帰ってくる皇帝」というイメージとスミレは、実際の出来事によっていっそう強く結びつくことになります。
エルバ島で約10か月を過ごした後、スミレが咲く季節にナポレオンは本当にフランスへ戻ってきたのです。
6. ナポレオンの失脚
しかし、ナポレオンの復帰は長く続きませんでした。
1815年6月18日、ナポレオン軍はワーテルローの戦いで、ウェリントン率いる英蘭連合軍とプロイセン軍に敗れます。その後、ナポレオンは再び退位し、最終的に大西洋に浮かぶセントヘレナ島へ送られました。
これによって「百日天下」と呼ばれるナポレオンの短い復権は終わります。
しかし、ナポレオンが去った後も、スミレと彼の結びつきが完全に消えたわけではありませんでした。
王政復古後には、ナポレオンやその家族の横顔をスミレの花束のなかに隠した版画などが流通しました。スミレを身につけたり、Père la Violette という言葉を口にしたりする行為が、当局から警戒されることもありました。
一方、ナポレオンを批判する側もこの象徴を利用しました。スミレとナポレオンを結びつけて風刺する出版物や作品も登場しています。
つまり、スミレは単なる支持者の印を超えて、ナポレオンという人物を表す記号として広く知られるようになっていたのです。
7. なぜ小さなスミレがナポレオンの象徴になったのか
ナポレオンといえば、巨大な軍隊を率いてヨーロッパ各地を戦った皇帝というイメージがあります。
それに対して、スミレは地面近くに小さな花を咲かせる控えめな植物であり、一見すると、両者は正反対の存在にも見えます。
しかし、ナポレオンが皇帝の座を追われた時期には、この小ささや目立たなさが、政治的な象徴として適した特徴でもありました。公然とナポレオンへの支持を示しにくい状況でも、小さな花であれば身につけることができます。
さらにスミレは春になると花を咲かせます。冬の間は目立たなくても、春になると姿を現すスミレの性質は、皇帝の帰還を待つ人々の期待と重ねやすいものでした。
そして1815年、ナポレオンが実際に春にフランスへ戻ってきたことで、その象徴性はいっそう強まりました。
スミレはあくまで人々の間で広まった象徴であり、ナポレオンの公式な紋章だったわけではありません。それでも、この小さな花は、鷲や蜂といった帝政の公式な意匠とは異なる形で、ナポレオンを象徴する存在になったのです。
8. まとめ
ナポレオンとスミレの結びつきが特に強くなったのは、1814年に彼が皇帝の座を追われ、エルバ島へ渡った後のことでした。
ブルボン朝が復活したフランスでは、1815年になるとナポレオンの支持者たちの間でスミレが密かな象徴として使われるようになり、ナポレオンもPère la Violette という愛称で呼ばれるようになります。
そして1815年3月、ナポレオンは本当にエルバ島からフランスへ戻り、3月20日にはパリへ到着しました。
その後、ナポレオンは再び失脚しましたが、スミレと彼の結びつきは消えませんでした。ナポレオンやその家族を花束のなかに隠した版画が作られるなど、スミレは彼を表す象徴として長く残っていきます。
春になると静かに花を咲かせるスミレは、やがて追放された皇帝の帰還を待つ人々の希望や、ナポレオンへの支持を表す花となったのです。





